I think so 思う

めざせもののほん

ソフ・イズ・ゴーン

祖父が死んだ。早すぎるということはない、むしろ長寿の部類であろう。「次の正月は、もう迎えられないだろう」父がそう言ってから、3回は年を越し、4回目が迫るタイミングだった。このあたりが最高に祖父らしい、と感じる人だった。

祖父はいわゆる特攻くずれであった。特攻くずれにはアウトローな意味があるらしいと最近知ったが、他にどう呼べばいいのかわからない。自ら志願し、しかし出撃を待たずして終戦を迎え、焼け野原になった広島を目撃し、京都に帰ってきた。物心ついたとき、祖父宅はクリーニング屋 兼 時計屋だった。その後、自転車屋のようなこともやっていた。脈絡のなさは当時から感じていたが、上記の前にも、銀行員をはじめとして、数多くの職を渡り歩いていたらしい。それというのも、彼が7人きょうだいの長兄であり、弟妹を養うために、可能な限り、多くの収入が必要だったからだという。父が物心ついたときにも、まだ末の妹と同居していたらしい。そんなことは、ついぞ知らなかった。すべて、法要の場で知ったことである。そういえば、米兵相手に商売をしていたと聞いた気もする。破天荒である。孫と言っても、知らぬことだらけである。

年齢が年齢だし、体調も体調だった。いつ知らせが来てもおかしくない状態が続いていたし、その覚悟も出来ていると思っていた。いざ実際にそうなってみれば、想像していたより、悲しく感じた。折しも台風が東日本に迫る中、平日の日中にも関わらず満員の下り新幹線で実家に向かいながら、絶対的に不可逆な死というものを思い、己の想像力の不足を痛感した。分かったような気になってはならない。そんなことは分かっているが、分かっていない。

両親は共働きで、祖父母宅は徒歩圏内だった。平日、保育園や学童から帰る先は、祖父母宅だった。親代わり、とまで言ってしまうと両親に失礼な気もするが、一般に言うじいちゃん、ばあちゃんよりは、はるかに恩があるのは間違いないだろう。 ロクに孝行もできていないが、妻の顔を見せることが出来たのは本当に良かったと思っている。なぜか、救われる思いがしている。当時すでに、かなり痴呆が進行していた。どこまで理解してもらえたか。しかし、それでも。勝手に悔いて、勝手に悲しみ、勝手に救われて、それで何が悪い。法要も、通夜も、葬儀も、この文章も、あらゆるものは生きている者のためにある。

じいちゃん、ありがとう。合掌。